心の中のバケツの話、という話がある。
そのバケツから水が溢れると、人が変わったように大きな成長が訪れる、というものだ。
バケツに水を入れてもらう人は、成長する当事者であり、
「成長できた」、「成果が出た」という状態を実感する側である。
バケツに水を入れてあげる人は、成長を見る側であり、
「成長が見られた」、「相手に成果をプレゼントできた」という状態にする、
いわゆる、教えたり、育てたり、指導する側である。
そして、そのバケツも中の水も目に見えないものである、ということを前提としている。
人は、他人から認められていない状態の時は、周りに求めてしまうものである。
だから、その人には周囲の人が水を注いであげる必要がある。
バケツの水が溢れれば、その人は周りから認められるようになるし、幸せにもなるからだ。
そして、やがてバケツから水が溢れた時には、その人は劇的に別人のように人が変わり、
大きな成長が訪れる。
しかし、バケツから水が溢れる時以外は、水が2割のときでも8割の時でも、
何か変化があるのかどうかは、まったくと言っていいほど分からない。
本人ですら、周りの人達に、もっと水を入れて欲しいと望み続けてしまう。
水は目に見えないので、時には周りの人達は途中で諦めてしまうこともある。
しかし周りの人達は、その人が変わると信じて水を注ぎ続けるだけである。
そうこうしていくうちに、やがてバケツから水が溢れる瞬間を迎えるのだ。
教育業界ではこういう状態を「啐啄の機(そったくのき)」と言うそうだ。
鳥の卵が孵化する時、雛鳥が卵の内側から殻を割って外に出ようとするタイミングで、
親鳥が外側からもつついて割ってあげる、という様を言う。
導く側と学ぶ側が通じ合い、大きな変化や成長が見られたり、
目的が達せられたりする、ということを、そのように表現しているのだ。
もしバケツの底に穴が開いている(トラウマや悪い記憶などがある)ならその人には、
空っぽになってしまわないように、寄ってたかってみんなで水を注いであげるしかない。
もし誰かが来て、ひと掬いしてバケツに水を加えた瞬間にそこで溢れたのなら、
その人がたまたま最後のひと掬いだったということである。
いずれにしても変化が訪れた時には、バケツに水を注いでもらっていたその人は喜び、
最後のひと掬いをしてくれた人に感謝するだろう。
そしてしばらくしたら、次に向かってどこか遠くに行ってしまうのである。
たとえ最後のひと掬いが自分ではなかったからといって、がっかりしないことだ。
どこかで、誰かが、何かをしてくれていたおかげで、最後のひと掬いが存在できるのだ。
少し切ないかもしれないが、自分もどこかの誰かと同じように、水を注いであげることだ。
そうして水を注いであげた人達は、やがて何年も経ってから、
「あいつ元気にしてるかなぁ」と、その人の幸せをどこかで願うものなのだ。
その人の劇的な変化の瞬間に立ち会えたとしても、立ち会えなかったとしても、である。
もし次に会えた時に大きく成長していたのなら、誰かが最後のひと掬いをしてくれたのである。
その姿を見ることさえできれば、自分が最後のひと掬いでなくたってよいのだ。
その人に成長が訪れたことが、ただただ嬉しいのだ。
人を教育するとは、そういうことである。
相手を見る力、聴く力、自分の持ち得る力すべてを発揮して、啐啄の機を待つことが大切なのだ。