強気の大切さ

 
勝負の世界、とりわけ武道や競技においては、
「死ぬ気でやるな。殺す気でやれ。」と表現される言葉がある。
いや、一昔前を境に、「あった」になりかけている。
 
ここ最近の時代に合わせて言うなら、要は「もっと強気を押し出せ」が近いだろう。
無駄にもがいたり、自分を粗末に扱ったりするような「やられる側」の思考でなく、
辛く苦しく負けそうな場面でも、弱気や逃げ腰にならずに、一歩も退かずに、
決して自分を放棄せずに戦って「決着をつける側」になれと言うことである。
 
もちろん、精神面の育成や鼓舞をするのにその言葉が使われることもあるだろう。
なぜなら、勝つも負けるも、強いも弱いも、上手も下手も経験し、
まだ未熟ならそれを乗り越えて、足りていなかった技術や心を知り、
いつでも使えるようにしておく必要があるからである。
突き詰めれば、礼に始まり礼に終わるのがその道というものだからである。
 
自分があり、相手があっての事なのだ。
勝ち一方、負け一方では錬成にも修養にもならない。
 
今の段階で「その経験がない」もしくは「足りていない」、
あるいは、「今がその機会」と見込まれているからそう言われているのだ。
間違っても、殺意を持ってやるとか、実際に人の命をどうのこうのということではないのだ。
 
 
 
今ではその表現自体がNGとされる風潮が強まってきているように感じることもあるが、
言い方は変わっても「強気を持って一歩押し出す」という感覚は、
これからも必要だし、持っていなければならないものである。
 
「もうダメかも」と簡単に思ってしまうなら、果たしてそこに辿り着くまでに、
自分が納得いくほど、悔いが残らないほど頑張ったのだろうか。
「ここからが腕の見せ所だ」と、自分で自分を鼓舞できないだろうか。
 
「嫌われたらどうしよう」となるなら、「自信」の育み方をほんの少しも身に付けなかったのか。
「自分の良さを知ろうともしない人はこちらから願い下げだ」と思うこともできたのではないか。
それが毎回なら天邪鬼と言われるだろうが、普段真面目なあなたが誰にも迷惑をかけず、
ただ自分を奮起させるために、自分に向けて言うくらいなら罰は当たらないのではないか。
 
「もし裏切られたら怖い」ではなく、なぜ「裏切られたらこう潰す」と考えておかないのか。
計画もせず、準備も鍛錬もせず、ただただ周囲から目立たないように温厚にしていれば、
いつまでもいい人で無難に居続けられると、本気で思っているのだろうか。
 
 
 
人生においては、弱気など何の役にも立たない。
それに加え、優しさ、気遣い、配慮、といった言葉や感情などが全く伝わらないこともある。
時には、常に強気を維持していなければならない時間と空間があったり、
勝って撥ね除けなければならない相手や事柄が出てくることが、確かにあるのだ。
 
先人たちの「死ぬ気でやるな。殺す気でやれ。」とは、よく言ったものである。
時代に合わせて死語になるのではなく、よく理解した上で使い、使われたいものである。
 
自分で勇気を出して自分の心に火を灯したのなら、自分で水をかけて消す必要はない。
わざわざ楽し気に、バケツで水をかけに来ようとする奴等は、もっと必要ない。
大事な時に、強気をもって自分で自分の事を、一歩押し出させることが大切なのである。