この人は本当の友達なのかを見抜きたいと考える前に

 
「人の目など気にせず自分らしく生きていけばいい」
結局のところ、それに尽きるだろう。
 
自分のことを細かいことまでいちいち馬鹿にしてくるような人は、友達ではない。
何か理由を説明しても、それでも揶揄してくるような人は、なおさら友達ではない。
本当の友達というものは、あなたの個性や独創性、判断、決断といったものを、
尊重してくれるのが普通だからである。
 
また、「他の人と違うから」という理由でケチをつけてくるような人は、
「画一的」とか「横並び精神」と言われるように、一律に判断しているため、
あなたのことを大切な友人だとか、特別な存在だとみなしていない。
 
これが教師や何かの指導者ならば、時にはそのような見方をする必要もあるし、
競技の上でそのように見せるために必要な能力や技術、という面ももちろんあるのだが、
友達という視点で見るならばやはり、自分の友達が他人と違うことをしていたとしても、
それも個性だと認めたり、寄り添ってあげるのが人情だし自然なやり方なのである。
 
 
 
決して悪い意味でも、天邪鬼でも、故意にでもないのだが、
「この中でなら白が好きと多くの人が言うけど、自分は黒が好き」とか、
「みんなは気にならない事かもしれないけど、自分はこういう理由でこれが好き」という、
人それぞれの違いがあるからこそ、人は面白いものだしそこに興味も沸くのである。
 
他人と同じことをしている人が何かで成功するわけはないし、
何かで他の人よりも秀でたり、お金持ちになったりできるはずもないのだ。
個性を認めなければ認めないほど、何かで突出した成果を上げることは不可能だし、
何かを成し遂げている人こそ、他の人とは違うことをしているものなのである。
 
日本の社会では「他の人と違うことをしている」ということは、
一見マイナスに思われがちな面もまだ少し残っているような気がする時もあるが、
その一方で、「ごく平凡な一般市民として、慎ましく、安定して、みんなと同じに、
平均的な生活ができればそれだけで十分」と考えてる人もいるだろう。
 
その辺りについての意見は、特に口にしなくても自分で内心思っておけばよいので、
それよりも「自分らしさを出して、自分らしく堂々と生きていけばいい」のである。
 
他人に迷惑をかけたり、法に触れたりすることは良くないが、
他人に迎合して流される人生になってしまっても、百害あって一利無しだし、
他人に害を及ぼさない範囲であれば、新しいことにはどんどん挑戦するべきでなのである。
 
 
 
中には「自分がどうするかが大切で、他人には一切無関心」という人もいる。
こういう人はある意味、「他人の個性をとても尊重している」とも取れるのかもしれない。
形は様々だが、お互いの個性を最低限尊重できる心の器の大きさは必要である。
 
まあ、自分がやりたいことを好き勝手にやる人生にはそれなりに責任も生じるが、
それは誰にとっても同じことだろう。
 
人生において、周りの人達と多少ズレたり、奇抜なことをしたり、
誰もやらないことに挑戦する時は、大体において異を唱える者が出てくるものである。
そんな時でもあなたの個性や人格を肯定してくれる友達であれば、
本当に大切に扱っていかなければならないだろう。
 
こういった一連の考えを持つことは、自身の友達にスクリーニングをかけているようで、
何となく気が引けると思うところもあるだろう。
しかし、それは実は「自分の人生に対して、前向きに正直に向き合っていない」
ということでもあり、後々になって痛感させられたのでは遅いということは間違いない。
 
 
 
結局のところ、本当の友達を見抜く力を養うよりも先に、
「自分の人生をしっかり設計して、自分の足で地面の上にしっかり立って、
人の目なんていちいち気にせずに、堂々と自分らしく生きて行きなさい」
という話である。
 
あなたが自分の事に真剣に向き合って一生懸命に生き、
自分と他人の個性や好みの多少の違いくらいは優に受け入られる器を持ち、
自分の成すべき事を成し遂げられる人物なのかどうかは、
あなたの本当の友達だったら、恐らく既に見抜いているだろう。