いきなり結論になってしまうが、人に褒められようと思って行動したり努力をしたりしない、ということを土台としておくことが大切である。
なぜならば、それは自分が主体となっていない考え方だからだ。
自分の人生の主役はあくまでも自分自身なのであり、周りの誰かではないのだ。
「自分が良いと思うことを一生懸命やった結果、周りの人から褒められた。だから、嬉しいからまた頑張る。」というのならば分かる。
しかし、「○○さんに褒められたいので、一生懸命頑張る。」というのは、ある種の依存なのではないだろうか。
社会に出れば、一生懸命頑張った結果として周りから褒められるということは、実際にあることだ。
もちろん、そこから得られる感情として、「一生懸命頑張って良かった」とか、「自分は意外とやれるんだな」とか、「いやいや、皆さんの支えがあったからだ」というものはある。
その上で、憧れていたり尊敬している人から褒められるようなことがもしあれば、今までのすべてが報われたかのように、嬉しくて天にも登る気持ちになることだろう。
「自分があってのあなた、あなたがあっての自分」と思えるくらい、充実した気持ちにもなれることだろう。
当然だが、あなたに対して実際にそのように接してくれる人との関係は、末永く良好に続けていくのが望ましい。
しかし一方で、「いなくなる」ということもまた心に留めておかなければならない。
たとえ「自分が自分のために一生懸命頑張った」とか、「今まで良くしてくれた人のために恩返しができた」とか、向上心や善意などの理由から一生懸命頑張って結果が出たとしても、あなたのそばからいなくなってしまうのである。
それは、その人にとって一区切りついたから次のステップに進んでいった、という時もある。
また、その人の意思でなく、それを見ていた別の誰かの采配に因って決まってしまう時もある。
或いは、あなたが結果を出したことで、その人を今までの居場所から追いやってしまうことになったのかもしれない。
このような場合は、どんなに素晴らしい結果を残そうが、どんなに誰かのために一心不乱に働こうが、どんなに感謝の心や謙虚な姿勢を持って事を為したとしても、望む人から褒められることはないだろう。
経験すると分かるが、ただ、いなくなるのである。
誰も悪くないし、人生にはそんなときもある。
その人が心の中で「よく頑張った」とか「ありがとう」と思ってくれていることや、また時と場を同じくする機会を信じるしかないのだ。
他人から褒められることをモチベーションにしていたり、そこに大きな割合を割いてばかりいると、人生のこうした場面で空振りのような気持ちを経験をすることもあるだろう。
誰でも、人から褒められると嬉しいし、自分のできる同じようなことはどんどんやってあげたくなるだろうし、今までの自分に自信がつくし、「この人達のために次も頑張ろう」と思うだろう。
ただ、先にも少し触れたが、少し周りに依存している気持ちはないだろうか。
少し大きめの解釈かもしれないが、「どこかで誰かが何かをしてくれているから自分は今日も生きられる。」ということは間違いないだろう。
しかし、それにしたって、自分の人生の主役は自分なのだから、もう少し自分に焦点を当てても良いはずだ。
ところで、人から褒められて嬉しくなった時に、それまで自分がどんな目的を持ってその事に当たっていたのか、ちゃんと覚えているのだろうか。
結果が出るのは確かに誰にとっても嬉しいことだが、それは自分の次のステップにどう繋がることなのか、またはそれが最終目的だったのかどうか、ということを見失ってはいないだろうか。
また、念のためだが、自分の意志や判断で物事に取り組んで成し遂げた人であっても、このことを忘れている人はいないだろうか。
恐らくこの時点が、これまでやってきたことや人生を振り返るとか、反省をするとか、自分と向き合うとか、自分の軸を持つということについて、最も鍛えることが可能な機会と言えるだろう。
他人に褒められたい気持ちも、主体的に取り組もうとする気持ちも、どちらもあってよいし、どちらも持っておいた方がよい。
しかし、こうした機会を逃さずに、確実に自分のものとして積み上げていく姿勢が育つことが大切である。