「自分のせいだ」、「あいつのせいだ」とならないために

 
 自責や他責の念に駆られる時は、受容を知って試してみるとよい、という話があった。
 誰でも人それぞれに性格があるから、自分を責めてばかりの人や、他人を責めてばかりの人というのもいて、ちょっとしたことで自分も陥ってしまうのではと考えてしまうことがある。
 
 確かに、自己評価が低かったり精神的に参っていたりすると、自分を責めやすくなるのかもしれない。
 また、社会への不満が強くなっていたり強気や自信という状態が過剰になっている場合、他人を責めやすくなるのかもしれない。
 ちなみに筆者自身は前者の方が可能性が高いだろう。
 
 実際に精神的に辛い状況にあれば、通常の心の余裕を保つのはなかなか難しいことだろう。
 しかし、今目の前に起きた事実を受け入れるという、心理学や精神医学で言われるところの「受容する」ということができれば、一旦でもそうすることができれば、少しはその後の今この時点の現実も変わっていたのではないだろうか。
 
 
 
 例えば、あまりよくない行動や言動に走ってしまっても、一旦受け入れてみて冷静さを少しでも取り戻せば、(程度によるが)以下のような対応をして見つめ直すことができるだろう。
 
 ・失敗したのはあなたがいたからだと言ってしまった
  → 自分が早めに気づいて協力していたら、結果はどうだったか
  → 「人」ではなく「手順や作業」として見て、事前に回避できなかったか
 
 ・過剰な労働によりメンタルを患ってしまった
  → 自分の中での一線を超えた時に辞められていたらどうだったか
  → そもそもその線引きは、普段から調べたり学んだりして用意していたか
 
 ・ある政治家が気に入らないからといってネット上で悪口を続けた
  → もし自分なら政治や法律や学問に則った上で、どの程度の発言ができるか考えたか
  → その前に、今の自分の現実での成果は、社会にとってどれほど良い影響を与えているか
 
 
 というように、何かあった時でも、すぐさま反発して思いつくままに発言したり行動したり、または鵜呑みにして信じ込んでいつまでも切り替えられない、という状態よりはよほど良いだろう。
 だから、一先ずは今の状況を一旦受け入れてみて、まだ自分でやれそうなところ、改善や修正ができそうなところ、一度時間を空けた方が良さそうなところ、誰かに助けを求めたいところなどはないだろうかと考えてみると良いだろう。
 「全部無理。あり得ない。あなたのことは知らない。拒否。」とばかりになっていたら、たとえ一部分でも受容できそうなところがあったとしても、すべて「否認」に終わってしまうのだ。
 
 一旦受け入れれば、新たな視点が見えることも多いし、何も見えなくたってとりあえずは落ち着ける。
 また、受け入れたからといって、誰かの言いなりになるのでもなければ負けでもないし、永久に奴隷でも一巻の終わりでも何でもないのだ。
 一旦現実を受け入れて、これまでどうであったか、次はどうしようかと考えることの方が、より賢く生きられるし、精神的な余裕もできて器も大きくなり、道も開けるという、至極当たり前のことなのだ。
 
 筆者の経験上、受容の手前の時点で思考停止して真っ白になったり、激昂して手が付けられないほどになってしまう人をごく稀に見かけることがあった。
 当時はただの妄想であって欲しいと願うばかりだったが、その人が過去に出会った誰かがその人を都合よく扱おうとして、何かしらの言葉や行動を経験として植え付けようとしたのではと思えてならない。
 
 
 
 誰だって生きていれば、全部受け入れて全部何とかするのは難しい。
 誰かを攻撃して自分の中から意識を逸らそうとすることもあるし、自分を攻撃して責め続けてしまうこともあるのだ。
 しかし、自分を責めるにしても他人を責めるにしても、ただの「現実否定」でしかないのだ。
 
 また、自分に対して起こる物事のすべてをトントン拍子に解決させていくこともなかなか難しい。
 何であれいつであれ、良いところがあったり悪いところがあったりするものだし、たとえ紆余曲折があったとしても長い目で見たら少しずつ改善されている、ということの方が多いのだ。
 だから、何もかも拒絶して自責他責の念を持ったり自分を否定したりせず、「良い部分を見つけてそれを見ていく」ことが大切である。
 
 なぜならば、そのようにして自分の受け入れられる部分を増やしていくことで、状況も判断できるし、改善の経過も分かるし、今までとの比較もできるし、次の一手を考えることもできるからだ。
 原因や言い訳を自分に向けても他人に向けても、ストレスしかたまらないのだ。
 
 確かに今すぐ解決してスッキリしたいという気持ちもよくわかるが、「うまくいかない時があっても、それもプロセスやステップであり、よくあること」と思えたり、「今は少し辛い状態にあるかもしれないが、しょうがない。」と思えることが「受容」なのである。
 
 また、「しょうがない」という言葉も、時として無責任と取られたりすることもあるが、自分や他人を責め続けることに比べたら何倍もマシである。
 それは、多少の出来事があっても、「しょうがない」と受け入れて、受け入れたなりに「じゃあどうするか」と次に向けて対策をして、実際に行動に移していかれる人の方が、より謙虚で正直な人だと言えるからである。