自分と他人の言うことがすべて同じということはまずあり得ないことです。
ですから、基本的には「まあそういうこともあるよね」くらいに思うことで留めておき、特に問題にするようなことでもない些細なことであれば、あまりそのことに囚われ過ぎない方がよいでしょう。
生きていれば、一緒に生活している家族に腹が立つとか、若い人や思春期の人が生意気なことを言って腹が立つとか、会社などで人や仕事が何となく気に食わないから腹が立つということもあるかもしれません。
それは、自分がそうなる時も、他人からそう思われる時もあります。
その程度であれば、「まあ、どうでもよいかな」くらいで済ませられることでしょう。
ただ、有名な人や高名な人が何かを言ったりやったりした時に、そのことにいちいち目の色を変えて腹を立てているのもどうだろうかと思います。
暇なのかな、とも思います。
もしかしたら、人間の進化の過程で「腹が立つ」という機能が失われていればよかったのかもしれませんが、現実には起こってしまうので、そんなことを考えても仕方がありません。
結局のところ、腹が立つということの主だった理由は、「自分の考えていることと、相手の考えていることが違う」ということに接した時なのでしょう。
さて、自分と異なる考えを持っている人や、異なる行動とっている人や、異なる生業をしている人などが、「自分が正しいと思っていることと違う」という状態になることは、もちろん他の原因も考えられることもありますが、当たり前といえば当たり前のことです。
例えば、科学者の研究などでは、彼らは、研究して、実験して、記録をつけるなどして、その結果となる事柄に辿り着いたり、真理を導き出したりしています。
彼らは恐らく、世の中や他人に対して、恨みを持ってやっているわけではないはずです。
一つ一つ記録を付け、それを整理し、今この時代の現段階で「これ」と言える結果を導き出した。
そして、それを素直に発表した。
単にそういうことをしただけでしょうし、別に悪いことでもありません。
これに対して腹を立てるということは特にないでしょうし、個人の感情に任せて「それは違う」と糾弾することもないでしょう。
恐らく、多くの人は、「自分が中心にいたい」とか、「自分は得をしたいし、自分の得になることならばやる」とか、「自分が苦労するならやらない」とか、そういった執着に囚われているだけなのではないでしょうか。
これに腹を立てるような人は、「新しい発見をされると、今までの自分の教えや行いを変えなければいけないので、そんなことをされたら困る」という人なのでしょう。
或いは、「自分だって一生懸命研究していたのに先を越されて、今までやってきた意味がなくなっちゃったじゃないか」と思ったり、単純に「自分よりも注目されたことに腹が立ってしまった」のでしょう。
または、もしかしたら、そういう人且つとっても偉い人が、その人の後ろにいるのかもしれません。
例え話と妄想は終わりにしますが、仮に相手が自分と異なることを言っていて、そのことに腹が立ったとしても、その相手は世間と異なるようなことを無理矢理言っているのではないと考えるのが自然です。
自分の考えは必ずしも正しいとは限らないものですし、それは相手にしても同じことが言えるからです。
また、「本当に全方面から見て一点の曇りもなく正しい、どこをどう頑張っても絶対に覆らないほど正しい」という考えに至るのはとても大変なことです。
それができれば「自分が考えていたことと違うことを言う人に腹が立つ」ということもありませんから、腹の立つことのない楽しい毎日を送れているはずです。
一方で、「これが正しいと思って生きていこう」と考えていた拠り所がなくなってしまい、そのことに対してやり切れなくなってしまって腹が立ってしまうということも分かります。
重ねて、人間として1ステップ成長したために、「正しくはこうではないか」ともっと探求できるようになるような、ある種の「人の心や知性の美しい一部分」ということも分かります。
ただ、大切なのは、自分が普段「腹が立つ」と思っていることは、相手が間違っているとか、憎たらしいとか、許せないとか、そういったことではなく、単に相手が「自分が今まで考えていたことと違う」から腹が立つということです。
そうだとすれば、やはり、「まあそういう事もあるだろうから一応考えておこう」くらいに留めておいた方が腹が立つ回数も減り、より幸せな人生を送れるようになるのではないでしょうか。