自分の意見がないように見える人は、実は心を開くのが上手な人が多い

 
何かを学んでいく中で、自分の意見を持っていない人がいることがある。
相手が自分の意見を持っていないからといって、軽く扱わないことである。
 
自分の意見を持たないからといって、その人が無知であるということではないのだ。
物事に無関心であるという心が表れている、というわけでもない。
それらは多くの場合、心を開いている証拠とも言えるだろう。
 
それは、学習対象そのものに対してかも知れない。
或いは、あなたの発言や意見や成果の発表に対して、
一旦は受け入れて処理しようとしているのかもしれない。
 
また、今本質となっていることは何かを見抜こうとしているのかもしれない。
別の事例や過去の経験と関連付けたりして理解しようとして、
懸命に頭を働かせているのかもしれないのだ。
 
 
 
学習する対象が初めてのことだったり、複雑で重大な問題であればあるほど、
批判的な思考は一旦保留として、判断せずに置いておくこともある。
自分がそうするのと同じように、相手もそうすることだってあるのだ。
 
また、何かを学んでいくことに対して、初めて経験する時の年齢や、
男性だから気が付けること、女性だから気が付けること、
子供だから発想できること、その業界を経験していたから配慮できること、
というようなことが、どこかで必ずあるのだ。
 
学習を進めていく時の鍵となることは、
すぐに結論を出そうとせずに、一旦は受け入れて情報を収集することである。
 
情報を整理したり精査する前に、現段階での自分なりの結論を導こうとするのは、
あまりにも早計過ぎるし、実際にはその後からでも十分なのである。
 
一旦受け入れる心がないと難しいのだ。
 
 
 
相手は、自分と異なる環境で生きてきた人間である。
もしかしたら、ただ単にアウトプットが苦手とか、経験が少ないだけかもしれないが、
自分の意見を出さないからといって、何も分かっていないとは限らない。
だからといって「何か言ってよ」と詰め寄る必要もない。
 
経験上、自分の意見を持たないと周りから言われるような人は、
実は学習意欲が高く、周りに合わせたり受け入れることが得意な人が多い。
実は器の大きい人だった、などということはザラである。
 
それがもし、「まだまだ人生これから」というような若い人であるならば、
「学んだことを理解して自分のものとする過程にある人」と考え、尊重する方がよい。
自分の考えを押し付けたり、その人の目を摘むようなお節介は必要ないのだ。
 
そして、相手のことをあまり考え過ぎてしまうよりは、自分の人生に専念した方がよい。
ただ、こういったことも頭の片隅に置いて人と接することができれば、
人の内側を感じ取る訓練にもなる。
 
しかも心を開くのが上手な人が題材とくれば、まあ少なくとも、
「いつかどこかで誰かから、簡単に足元をひっくり返されてしまうかもしれない」
と怯える人生を歩まなくて済むということには間違いなく繋がるだろう。