やってもやっても、乗り越えても乗り越えても、新しい悩みや課題というものは湧いて出てくるものだ。
しかし、自分の人生が、もしも何の障害も起こらない人生だとしたら、恐らくとてもつまらないものになるだろう。
何にも困らず全てがうまくいくというのは、かえって面白くないのだ。
だから、悩み事に向き合う機会があれば、「悩み」と捉えずに「ハードル」と捉えると良いかもしれない。
仮に人生がハードル走だとして、もしも100mや110mのうちにハードルが1個だけだったら、やっている方も観客も面白くないだろう。
それだともはや100mハードル走ではなく、ただの100mと大して変わらないし、100m走障害物付きとも言えてしまう。
人生においても、ハードルだけに限らず壁や障害と言われるものが次々と現れる。
確かにあまりにも大変すぎることが続くと嫌になるが、適度な障害やハードルがあるからこそ乗り越えた時に達成感を得られるし、次の障害が現れても立ち向かっていかれる。
直面した嫌な出来事から逃げたり見ないふりをしたって、現実は何も変わらないからハードルは残ったままである。
問題意識もなく生きていたら、そもそもハードルがあることにすら気づかず、現実の物事とまともに向き合えないレベルのまま、頓珍漢な人生を送る羽目になる。
だから、いくつかハードルがあるくらいでちょうどよいし、いくつかに一つは少し高めのハードルがあるものなのだ。
捉え方の一例としてだが、漫画にしてもゲームにしても、先に進むにつれて手強い相手が出てくるということを繰り返すから面白い。
これが、例えばロールプレイングゲームで一番最初の方に出てくる一撃で倒せる敵が、最終決戦付近になってもその敵しか出てこないし、最終決戦もその敵一匹だけだとしたら、これほどつまらないことはないだろう。
人生もそれと同じようなもので、ハードルや困難は経験や環境によってかわるものだし、それらを楽しめるかどうかということもまた、人生の味わいの一つなのだ。
上手くクリアしたり、ほどほどに苦しんだりしながら進んでいくから、自分の成長もわかるし楽しめたりするのである。
ちなみに筆者にも上手くいくことはあるし、苦しかったり面倒くさかったりすることもあるし、人には言えない挫けそうなほど辛い出来事もある。
誰にでもそれなりには言えることだろうから、「自分だけ辛いのでは」と心配し過ぎなくてもよいだろうし、他人に対して「あいつばっかり楽しやがって」と思わなくてもよいだろう。
これからは、もっと自分の人生に集中して、起こった出来事や自ら起こす出来事を楽しんだ方がよいのだ。
人生を階段に例えることはよくあるが、「次の段」を一つ一つ 登っていくことが「大変」だと捉えるか、「当たり前」と捉えて次々と登っていくか、という違いで状況はかなり変わる。
「当たり前」と捉えればそれなりに覚悟もできるし、見えてくるものも自然と変わっていく。
そう考えると、悩みが尽きないことは決して悪いことではない。
先のロールプレイングゲームの話ではないが、敵が1つも出てこず経験値を獲得できないまま最終決戦を迎えても面白くないし、それでは勝てないし終われないのだ。
現実の人生で言うなら、物事を乗り越えて経験値を獲得して、成長して次に進むためのものが「悩み」なのである。
悩み、障害、ハードルと言われるようなことは、むしろ良いことであり、喜んでそれを乗り越えていくようにできれば人生はどれほど楽しいものになるだろうか。
颯爽と走って、ハードルを軽々と、次々と飛び越えて行くように、悩みもポンポンと捌いたり上手に乗り越えて行かれると、一つ一つの物事も楽しく向き合えるものになっていくのかもしれない。