精神論や根性論で無茶ぶりをする人は時代とともに少なくなってはきたが、まだ多少はあるだろう。
昔に比べたらそんなに酷いものではないだろうが、それにしたって根性や精神力だけで物事を乗り越えるのはなかなか難しいことと思う。
だから、いくら我慢強い人でもストレスになることは受け流した方が良いし、人から明るく扱われたり馬鹿にされても「そういう人もいるのだ」腹を立てるよりもスルーした方が良いだろう。
ストレスを受け流すのは一朝一夕には難しい。
しかし、全てを真正面から受け止めようとしない、つまり、真に受けないようにすることが必要だ。
これは、相手の言うことに過剰に影響されたり盲信しないということであって、失礼な態度を取ったり話半分に聞き流すということではない。
中立な立場で客観的に物事を捉えてみる、ニュートラルでいる、ということだ。
例えば、他人から怒られたり悪口を言われたりした時に、そこに全てを集中しないことである。
しかし、無視したかったり、忘れたかったり、思い出したくなかったりするものほど、余計に思い出されてしまうものだ。
そこに集中してしまうから、真正面からダメージを受けることになってしまうのだ。
と言っても、そのことに過剰に注目したり、その発言や状況を無視するということではない。
実際ニュートラルに見れば、それは今日起きた出来事のうちの一つである。
その瞬間や一時の出来事であり、1日24時間のうちの数分程度でしかない。
自分の人生や仕事における全てではないのだ。
このように捉えれば、ニュートラルでいるということは大切なのことなのだ。
こうして、起きた出来事を一つの現実として受け入れて、そこから修正すべきことをフィードバックして見つけ出し、やれることをやれる範囲でやっていくからこそ次にもつながりやすくなる。
嫌なことがあったとしても「そういう出来事があった」として、自分で嫌な出来事と決めて過剰に囚われて落ち込んでいくのではなく、また、無理やり無視しようとするのでなく、出来事の一つとして向き合っていくということである。
ところで、今まであった嬉しかった出来事や楽しかった出来事は、どのくらい思い出し、どのくらいその世界に浸っているのだろうか。
また、「そこから教訓を得た」とか、「また同じような良い気分を味わいたい」など、現在でもその出来事を人生の糧や発奮材料として役立てているのだろうか。
ニュートラルに物事を捉えるということを知ったのだから、いきなりは難しくても、少しだけでもやってみることである。
ちょっと嫌なことや悲しいことがあったからと言って、家に帰っても何日経ってもそこばかり考えて永久にそうするかの如く反芻して、大切な家族や友人にその話をして、自分の負の記憶ばかり強化していてはいけないのだ。
幸せに生きたいはずなのに、やりたいことをやりたいはずなのに、夢を実現させたいはずなのに、そんなことにばかり身も心も時間も記憶も使ってしまって良いはずがないのだ。
一日の中には楽しいことも辛いこともあるのだから、これからはもっとニュートラルに物事を捉えようとしてみるとよいだろう。
もう、自分からその日の一番嫌な出来事を記憶したり、それを人に話したり、思い出したりする必要はないのだ。
そして、「そういう出来事があった」として受け止めることで、「受け流す」ということに繋がっていくのだ。
感情はできるだけ取り除き、一つの事実として客観的に受け止めることができるようにしてみることだ。
それができてくると、ネガティブな感情に引っ張られてしまっても自分で中立(ニュートラル)の位置に視点を戻しやすくなり、結果として負の感情を受け流すことができるようになっていくのである。