自分のことを理解してもらうためにできること メモ

 
 「自分のことを理解してくれる人はいない」と言うと残酷なように聞こえるが、まあ無理もないことではある。
 というのは、「自分の気持ちを理解してもらえるとは何か」とか、「自分の気持ちを理解してもらえているとはどういう状態か」というような、「いつどんな時でも変わりなく、しかも誰の目から見ても明らかにそれ」という答えがないからだ。
 
 例えば親しい人が、「君のことはとてもよく理解しているよ」と言ってくれたとしたら、本当に理解してくれていると思えるのだろうか。
 それとも、「どうせ口先だけでしょ」と思うのだろうか。
 
 また、今までにあなたのことを完全に理解してくれた人は、誰か一人でもいたのだろうか。
 あなた自身は、他人のことを本当に理解してあげたことがあるのだろうか。
 
 恐らく、ないはずだ。
 ただ、理解と言っても程度があるので、そこそこ分かってあげられるという状態ならあり得るだろう。
 
 
 
 ところで、もし理解してもらえたら、上手くいってなかったことが全部丸く収まるのだろうか。
 スッキリして心も晴れやかに元気満々になり、これから先をずっと前向きに生きていかれるのだろうか。
 
 自分の気持ちを誰かが理解してくれるということに、それほどの意味はないだろう。
 また、仮に相手の頭の中を全部見ることができても、直ちに悩み事がなくなったり、良い人間関係になったりすることはないだろう。
 
 重要なのは、理解することでなく、「相手のことを理解しようと思って」相手の話を聞くとか、努力するとか、相手の苦しみを共に感じてあげたいと寄り添うなど、何か自分ができることをすることなのだ。
 実際にその場になったら、相手の思う通りに理解できるかどうかも分からないけど、その人のために何かできることをしてあげたいという「寄り添う気持ち」を持ってることが大切なのである。
 
 逆の立場で考えれば、相手が自分に寄り添ってくれる気持ちもないのに、頭の中や心を読み取られて「理解した」と言われても、何も意味がないし、かなり警戒するだろう。
 そういう人は理解してくれたとしても、あなたの助けになるようなことをしてくれるとは限らないし、あなたを理解した上で雑な扱いをするかもしれない。
 それでは何も安心できないし、プラスにもならないし、心の平穏も得られないのだ。
 
 
 
 他人の気持ちを理解するというのは、ほぼ不可能であろう。
 あなたは何年も生きているのだろうが、ほんの数十分や小1時間くらい話をしただけの相手の何をどのくらい理解できるのだろうか。
 
 もっと時間をかければ全てを理解することができるのだろうか。
 それができている人はこの世に何人いるのだろうか。
 
 そんな人はいないのだ。
 ある特定の人に対して、その生き方や行動や考え方というものを高いレベルで理解するということは不可能なのだ。
 
 もしも、あなたのことを本当に理解してくれたと思える人が現れたとしても、100あるうちのごくわずかな部分であろう。
 そして、その時にあなたは「この人絶対理解できてない」と思うに違いない。
 
 
 
 押さえておかなければならないのは、相手が悩み苦しんでいることに対して「共感しよう」とか「歩み寄ろう」と思う心なのだ。
 それがあれば、今辛いと感じている時に、その話を聞いてくれる相手が一人いることだけでも素晴らしいことだと思えるのだ。
 
 仮に、相手があなたの不平不満の話を1時間聞いてくれたとしたら、その人はかなりあなたに心を開いて寄り添ってくれている。
 普通は、嫌いとか苦手とかめんどくさいとか思うことに、しかも他人の身に起きていることに対して、自分の貴重な時間を割いたりはしないのだ。
 そのような人に対して「私の気持ちなんて少しも理解してくれていないじゃない」などというのは失礼なのだ。
 
 
 
 さて、あなたは親しい人や友達の気持ちをどのくらい理解できているのだろうか。
 十分理解できているという、その「十分」はどのようなもので、どのぐらいのものなのだろうか。
 相手の気持ちを大して理解できてもいないのに、「自分の気持ちだけは理解してもらいたい」と思うのは、一言で言うと「わがまま」である。
 
 それでも理解して欲しいと思うのであれば、今できることは、「自分よりも先に相手の気持ちを理解してあげようと努める」ことだ。
 相手に対して「私の話を真摯に聞いて向き合って欲しい」と思っているのであれば、自分が普段からそのようにして相手の話に耳を傾けるべきなのだ。
 
 例えば、自分のこと一つとっても、絶対に達成できないぐらい高すぎる目標を持ったら、まず達成できないことはよく分かるはずだ。
 無理やりやるから失敗して、「なんて自分はダメなんだ」と落ち込んで沈んでいくのだ。
 同じように、あなたの「理解してもらいたい」という高すぎる理想も、「あの人全然わかってくれない」となって拗らせていき、他人を責めて自分も落ち込むのだろう。
 
 それよりも、今できることを一つずつ確実に積み上げていくことが大切だし、目標もその延長線上になければならないはずではなかったか。
 それと同じように、「自分のことを理解してもらうためにできることは何か」と落とし込んでいけばいいのではないだろうか。
 
 
 
 話は戻るが、自分よりも先に相手の気持ちを理解してあげようと努めるには、今自分の話を聞いてくれて、自分と向き合って理解してくれようとしている相手に対する感謝の気持ちがないといけないし、そのためには自分から心の壁を取り払っていかなければならない。
 そうでなければ、状況はいつまでたっても良くならないのだ。
 
 まずは、自分の心の壁を取り除き、次いで自分の話を聞いてくれた相手に感謝してみることである。
 なぜなら、忙しいのに話を聞いてくれようとしている相手に対して感謝の気持ちがなければ、交流というものは深まっていかないからだ。
 自分から理解してみようと思って寄り添ってみるのは、その後のことになる。
 
 今が辛くて自分本位な状態に陥ってしまうことは誰にでもあるし、少しだけ視野が狭まっているだけかもしれない。
 しかしその中であっても、感謝の気持ちを持つことくらいはできるはずである。
 話の最後に「話を聞いてくれてありがとう」と言うことだってできるし、なかなか口に出せないのなら心の中で思うくらいはやれるのだ。
 
 
 
 コミュニケーションというのは、自分がいて相手がいるという中で行う交流である。
 自分本位に考えてばかりいると交流は起きないのだ。
 
 相手に対して敬意も感謝もなければ、あなたの目の前には相手が存在していないのと同じことであり、壁に向かって1時間話すようなものなのだ。
 また、コミュニケーションでは相互の言葉のキャッチボールがあるからこそ、やり取りそのものが上達したり、やり取りの中に癒しや感謝などの気持ちを上乗せできたりしながら話を進められるようになるのだ。
 
 これからは、「なんで私の気持ちを理解してくれないの」と怒ったり思い詰めたりする前に、「理解しようと時間を割いてくれてありがとう」とか、「理解しようと寄り添ってくれてありがとう」というように、気付いた時に少しでも感謝や敬意の気持ちが入れられるようになれば、自分自身も癒されていくようになるだろう。
 
 そこに気付くことで、「実は相手が持っているあなたへの思いやり」とか「愛情や友情などの前向きな感情」に気付けるようになる。
 また、「そこに気付いてあげる」ということが自分自身を理解してもらうための近道にも繋がっていくのではないだろうか。