完璧主義には加点方式もあって良いのではないか

 
 完璧主義の人は、100%やらないと自分を責めてしまうことが多いように思える。
 たった1つ間違えて95点だったとしても、全てがダメになって自分を責めてしまう。
 普通は95点というと凄いことなのだが、「1問間違えてしまった」というように減点方式で考えてしまうのだ。
 
 95点を取れたのだから、「あと1問も取って、次は100点を目指そう」と考える前向きな完璧主義者の人くらいいたっていいのだろうに、もしかしたらいるのかもしれないが、なぜか少ない。
 自分を褒める時は、たまには加点方式で考えると良い。
 もしも「次は完璧を目指して100点だ」と考えるとすれば、今までの頑張りや努力の結果に上乗せがされるということになるので、0か100かの思考に陥る可能性はグッと低くなり、精神的な健康の面においても良いからだ。
 
 例えば、人前での発表や研究課題などにおいては数値として点数化できないこともあるが、その中でももう既にほぼ100点と言っていいような出来なのに、たった一箇所言い間違えたりつっかえたりしただけで、ガッカリして自分を責めてしまう人は多い。
 これが、一生に一度しかできない挑戦とか、オリンピックやF1などの0以下のコンマの差を競うような競技というのであれば、1点差や1ミスというのは果てしなく大きなものだ。
 
 しかし、ほとんどの場合、日常生活や仕事や学校などではそんなこともない。
 であれば、仮に1問間違えて95点だったら、「次はノーミスで100点を目指そう」という発想ができる「加点方式の完璧主義」の方がより良いことなのではないか。
 
 
 
 筆者は音楽指導をすることがあるが、大会やコンテストなどでは加点方式が採用されているところもある。
 もちろん、どんな大会だって「間違ってもいい」なんていう前提には立っていないし、「上手に間違えましたね」と評価をするような基準はないばすだ。
 
 しかし、間違ったら間違ったで、「どのくらいの時間でリカバリーできるか」というところは評価されることもあるし、さらに個人の範囲でリカバリーできたのか、集団としてリカバリーできたのか、というところなどまで見られているものなのだ。
 
 実際、夏や秋のこの時期には、予選大会が行われているジャンルも多いことだろう。
 完璧を目指すのはまったく構わないが、ミスをしてもそれはそれとして、自分を責め続けてしまうことのないようにしたいものだ。
 
 是非とも自分のできたところを常に評価して、自分を褒めたり応援したりしながら、上手に進めたり乗り越えたりしていかれるようになることが大切である。
 その上でより高得点を目指したり、より高みを目指したりしていくことの方が、個人としても集団としても望ましいことなのではないだろうか。