心身ともに疲労困憊だったり、疲れ果てた状態の時に、或いはそうした状態にある人に向かって「頑張れ」と言っても、全然優しくはないし奮起もしないものだ。
頑張って乗り越えられる範囲の課題などにおいての「頑張れ」は、励ましになるし、前向きになれる。
良い結果に繋がるのであれば、自分でそう思ったり、言ってあげたい人に向けて言ってあげるのがよいだろう。
しかし、頑張ってもどうにもならないことや、目標を達成する期日がかなり先にある時は、「頑張れ」と言っても効果は薄い。
例えば、「明日は試験だから、今日は一日復習を頑張ってねと言われる」のは良いだろうが、「一年後の受験日に向けて、毎日頑張れと言われる」のだとしたら、言われる方だってそうそう頑張り続けていられるものではない。
人間の気持ちやエネルギーは有限であり、限界もあるのだ。
自分の気持ちとエネルギーを、コップとそこに入れた水として想像してみると、健康な人なら中身を使って減ってしまってもすぐに補充できるが、使い過ぎると減る量の方が多くなるし、速くなる。
健康でない時には補充できる量も少しだったりするし、漏れ出してなかなか溜まっていかないこともある。
そして、疲れやストレスとして徐々に体に蓄積されていく、というイメージである。
だから、頑張れたり結果が出せる状態にある人に対して「頑張れ」というのは良いが、これ以上は頑張れそうにないという人に対して鞭を打つことになりそうなら、言うのをやめた方がよいだろう。
「頑張れ」と言うにしても善し悪しがあるのだ。
自分が言われてみた時に「よし、やるぞ!」と思えるような言葉やタイミングであれば「良い頑張れ」だろう。
そうなれずに「いやもう無理」となってしまうようであれば「悪い頑張れ」であり、行動よりも休憩や休息の方が必要になる。
他人が「頑張れ」と励ましてくれるのを全て真に受けて、常に全開で頑張り続けていると、いつか心も体も参ってしまうだろう。
また、他人の「頑張れ」という言葉にだって様々ある。
今の中年や青年などの若い世代であれば「頑張れの善し悪し」が多少は分かるのだろうが、世代によって高齢過ぎても子供過ぎても違いが分からない。
その人は「頑張れ」の一言で乗り越えられるような環境で育ってきた人で、心から思いやりを持ってあなたに言ってくれた一言かもしれない。
或いは、幼すぎたり若すぎたりして、「頑張れ」の他に語彙がなかったのかもしれない。
だから、「頑張れ」と言って励ましてくれる人を悪く言うのも違うのだ。
この辺りのことも、自分の心に余裕がある時のうちに分かっておくと良いかもしれない。
いざ辛い状況に直面して限界になっている時に「頑張れ」と言われることになっても、少なくとも全てを真に受けて大ダメージを受ける可能性を下げたり、軽減したり躱したりできることに繋がるからである。
さらに、普段の自分自身の「頑張る」というものを物差しのようにはかる「尺度」も作ってみると良いだろう。
例えば、「やれることをやれる範囲でやっていく」という面から考えると、心身共にベストの状態でやれることを100としたら、普段は90から95の範囲でやることにして、110や120でやり続けることのないようにしてみる。
101以上になってしまった時も、どのくらいやり過ぎると疲労やストレスが溜まりやすくなるのかが分かってくるものだし、95のペースでずっとやり続けると考えると、計画性を持ったやり方なども分かってくる。
また、95のペースでやり続けるということであれば、ベストな状態からは5は楽かもしれないが、別にサボっているというわけではない。
少し余裕を持って終えるとか、もうちょっとやりたいと思ったりするところで止める、くらいの水準だろう。
その程度であれば、自分がやれるペースで進んでいけば、物事はどんどん進めていけるし、そうなってくると、もはや「頑張る、頑張らない」の区分けでもなくなってくる。
「やれることをやれる範囲でやる」を続けてみれば、「頑張る、頑張らない」の二者択一ではなく、「尺度」として見ることができるのだ。
だから、「今日は99でやってみよう」と攻めることもできるし、「昨日は調子が良くて105でやれたけど、今日も調子がいいから105でやってみよう」などとして徐々に繰り返していけばやがて慣れていき、今までの105がこれからは100として自分の中での「当たり前」にできるようになっていくのだ。
90から95でやり続ける方が良いのは、一時的に120や130の頑張りになることがあっても、頑張る頑張らないの二択よりも加減をより分かっているから元に戻しやすいし、一時的に120や130で頑張っている他人がいても、「コツコツと頑張れる人の方が、そう長くないうちに必ず追い抜くことができる」ということを身をもって知れるからである。