人生を退屈に感じた時の頭の整え方 メモ

 
 ①A4ノートを一冊用意する
 ②朝起きて直ぐに3ページ書く
 ③ノートには何を書いても良い
 ④絶対に他の誰にも見せない
 
 ポイントは、パソコンやスマホに入力するのではなく、ペンでも鉛筆でも何でも良いので紙に書き出すことである。
 紙に書き出す理由は、頭の回転を適当なスピードに落とすためだ。
 パソコンやスマホなどで入力してしまうと、頭の回転と同等かやや速い出力ができてしまうためで、それよりは紙に書いた方が、字の形や大きさ、筆圧や文字の丁寧さなどのことも考えて書くため、適当に頭の回転の速度を落とす効果もあるのだ。
 
 「速い」ということは確かに良い面もあるが、この場合は頭の回転を落とした方が言葉の重みや深いものの考え方ができるようになるためだ。
 人の話をよく聞いて理解したり、きちんとやり取りができる人の方が、重みのある発言や的を得た発言ができるというのは、その時の状況や相手に応じて頭の回転を適切に合わせることができるからなのである。
 
 実際に紙に書き出す内容は、その時に思いついたことでよい。
 段落形式にしようが箇条書き形式にしようが構わない。
 特に何も書くことがなければ、実際にそうなることはないだろうが、「何も書くことがない」と3 ページ分書いたって構わない。
 
 
 
 なぜなら、書き出す目的は、頭の中に溜まっているものを一旦外に吐き出すことだからである。
 人の脳の中には「理性」というものがあり、その理性が「私たちがいつもやるべきこと」を考えてくれているからだ。
 理性があるから「何をやるべきか」、「何をやってはいけないか」という判断をすることができ、だからこそ人類は生物の歴史を生き残ることができ、今に至るまで社会生活が繁栄してきたのである。
 
 もう一方で、人には、何か思いついたり、試したくなったり、真似たりしたくなる、という「発想」がある。
 自分の中の偶然性や多様性を発揮する役割というか、「大体は失敗するけれど、たまにいいことや上手くいくことがあったりして喜ぶ」というようなものだ。
 
 極端な話、理性にだけ従って生きていたら、人の生きる道はどんどん一本道に狭まり、正解のみを選び続ける人生になってしまう。
 それは確かに正しいし一切の無駄もないことなのだろうが、退屈でつまらない人生とも言える。
 だからと言って後者の考え方だけで生きていたら、いつも思いつきで一貫性のないバラバラでちぐはぐの人生になり、バランスも取れないものとなるだろう。
 
 ただ、人はこの「バランスを取って生きている」ということをしているつもりだが、実はそういう気がしているだけで、バランスなんか取っていないのである。
 いつの間にか理性に基づいて生きてしまうことがほとんどなのだ。
 そりゃあ理性の方が絶対に合理的であり、正しいし、損もなく生きられるのだろうが、理性に基づけば基づくほど、個性的で自由な発想をする考え方をほったらかしにしてしまうことにもなるのだ。
 
 
 
 あらゆることを直感的に生きるというのでは役に立たないことも多くなってしまうのだが、しかしそれでも自分の中の多様性や幸せの方向性といった可能性を探るためには、理性以外の方も必要だ。
 しかも、人は大人になるほど、物事を諦めたり、自分を抑え込んだりすることの方が多くなってくる。
 さらに、自分の中に湧いてくる衝動が強いほど余計に理性で抑え込んだり、諦めたり、別の方法を考えたりする。
 
 理性的に生きる方が人生の上では有利に働くことが多いこともあるので、それはそれとして良いこともあるのかもしれないが、幸せを実現するためには理性が強すぎると人生がつまらなくなっていってしまうのだ。
 朝にノートを書いて頭の中にあることを吐き出すということには、この理性的な脳を黙らせたり、疲れさせるという目的がある。
 実際にやってみればわかるが、A4ノートは思っているよりも大きいし、それを 3ページも埋めるのはかなりハードなことだろう。
 
 ただ、思い浮かんでいることというのはつまり言葉であり、文章であり、それこそが理性でもある。
 だから、この理性的な部分を全部吐き出して、朝一でヘトヘトになるまで疲れさせ、その日一日はあまり働かなくさせてしまう方が、自分の発想力を素直に出していかれる可能性を上げられるのだ。
 
 注意点として、この一連の流れは自分との対話でもあるため、他人には見せないことが重要である。
 自分が想像以上に良いことを考えていたことが分かったり、素晴らしいアイデアを思いついたりとめどなくあふれ出すようになって、どうしても他人に見せたくなる欲求に駆られるかもしれないが、それを実行した瞬間に、このノートは自分自身との対話ツールとしての信頼関係を失ってしまうからだ。
 法律に触れたり、他人に故意に迷惑をかけるようなことをしないのは当たり前の話だが(←理性)、自分の中にあるアイデアや発想力というものを、可能な範囲で自由に、健全に、そして必要以上に理性で自分を抑え込むことなく実現していくために、とても良い方法だと言えるだろう。